スクールブログ Hygee's Garden

この春卒業した生徒の卒業記念品が、南校舎のグラウンド側に設置されました。

今年度の卒業生が寄贈したものは、「太陽光パネル」です。

下校時に足元が暗く見えにくく、不便な思いをしたため、後輩たちには安全・安心な中で学校生活を過ごして欲しいという思いで、太陽光パネルを寄贈してくれました。

卒業生のお心遣いに感謝し、長く大切に使わせていただきます。学校に遊びに来た時にはぜひ、見に来て下さいね!

3月1日(金)、高校3年生223名が本校を卒業しました。

多くの来賓の方、保護者の方に列席していただき、厳粛な卒業式が挙行されました。

高校2年生も卒業生の後ろの席から、先輩の旅立ちを見届けました。

卒業生は皆しっかりと返事をし、クラスの代表者が卒業証書を受け取りました。

また、三年間で皆勤、精勤であった生徒へ証書が授与されました。

校長先生の式辞、来賓の方々からご祝辞を頂きました。

また、電報にて多くの方よりご祝辞を頂きました。

在校生の総代として、前高校生徒会長である村木さんから送辞が贈られました。

答辞として、生徒会長を務めた若田さんが代表で高校3年間の思いを述べました。

途中、涙ぐむ姿からこの3年間への熱い思いが伝わってきました。

その後、卒業生より記念品の贈呈、保護者の方より謝辞を頂きました。

最後に高校生活への思いと感謝の気持ちを込めて、卒業生、在校生全員で校歌と唱歌「仰げば尊し」を歌いました。

卒業式の後には、旧生徒会役員による謝恩の会が開かれ、先生ひとりひとりに花束と素敵なメッセージカードを贈ってくれました。

クラスの教室では最後のホームルームを行いました。

担任の先生から卒業証書が手渡されます。

生徒が一人ずつクラスメイトへの思いを話したり、先生から生徒ひとりひとりにメッセージを贈ったり、別れを惜しみながら最後の時間を共有していました。

この3年間または6年間で、同級生やほかの学年の生徒たちと共に過ごした時間はかけがえのない思い出になったことと思います。

これからは、大学進学や就職など、それぞれ別の道を歩んでいくことになります。

さらに成長し、素敵な大人の女性になった皆さんに再び会える日を楽しみにしています。

2月21日(木)、「世界の窓」というタイトルで国際理解に関する講演がありました。今年度は、本校の卒業生であり、現在尾道市立日比崎中学校の保健体育教員として勤務されている、中下杏美先生に来校していただきました。

 

中下先生は、昨年夏にJICAを通してスリランカに10日間滞在されたということで、スリランカの生活や食文化を紹介されたあと、現地で出会った10人の日本の方々を紹介されました。彼らがスリランカに来た理由や目的を知ることで、人はみな違う考え方があることを学びました。

 

また、中下先生は、どんな状況にあっても、あきらめずに最後まで頑張る姿勢の大切さを教えてくださいました。中下先生のまっすぐな姿勢は生徒のみなさんの心に響いたようでした。

中下先生、後輩たちに熱いメッセージをいただき、ありがとうございました。これからも先生のご活躍を心からお祈りしております。

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Jun 2018

キャリアスタディ

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  6月14日(木)中学3年生と高校1年生を対象に、キャリアスタディがありました。本校の卒業生である、矢口彩さんと渡辺志保さんから学生時代の過ごし方から現在の仕事に至るまでのキャリアについてお話をしていただきました。

 

 

教員を目指して大学に進学された後に、社風が自分に合っていて福利厚生が整っているオタフクソースに就職された矢口さん、好きなことを活かして現在はフリーランスとして音楽ライターやラジオのDJなどをされている渡辺さん、お二人とも大変充実された生活をされていることが伝わりました。

 

高校1年生は2年生から文系と理系に分かれて学ぶので、コース選択について真剣に考える時期に入っています。

今日の先輩方のお話を参考にして、しっかり自分の進路について考えましょう。

 

5月19日,本校卒業生の岡 ヨシエさんがお亡くなりになりました。

岡さんは,昭和20年に比治山女子中学・高等学校の前身,比治山高等女学校の3年生に在籍されていたとき,当時広島城にあった陸軍中国軍管区司令部の地下壕で,司令部・報道関係に通信連絡をする学徒通信隊として任務にあたられ,そこで被爆しました。

また岡さんは,広島・原爆投下の「第一報」を伝えられた方です。そのときの様子は,本校卒業生による被爆体験記『炎のなかに』にも書かれています。

以下,岡さんの体験記を載せさせていただきます。

 

~交換台と共に~

昭和20年8月6日。 忘れることの出来ない日である。 私はその朝、前夜から勤務していたので、中国軍管区で朝をむかえた。 昨夜はいつになく多かった敵機の侵入の為、一寸ぼけた頭で朝食を済ませ、真青に晴れ上がった空をあおぎながら元気をとりもどして、交替迄の勤務に壕に入った。 今日は何時もよりおそい交替だなあと心の中で思って居る中に、8時頃より敵機の侵入である。そしてすぐ去る。

“空襲警報解除” ホッとする気持も束の間、又敵機は広島方面に侵入。 8時15分警戒警報発令の伝令が飛ぶ。 私は警報を各司令部、報道関係に知らせる役目をして居たので、交換機に一度に数本のコードをさして相手をよんだ。(何時もの事なのでさほど緊張感はなかった。)一斉に出た相手の方に、「広島、山口、警戒警報発令」を、言いかけた途端ものすごい紫色の閃光が目を射り、何か事故が・・・と思う瞬間、意識を失った。 2、3分もたったであろうか。 回復しかけた、意識のぼやけた目に灰色一色だけが目に入った。

舞い上がった砂塵がしだいにおさまり、意識も完全にはっきりして次第に明るくなった部屋の中、私はすわって居た元の位置より2m位飛ばされていることに気づいた。 机は横だおしになり、いすはこわれ、ただごとでない光景を目で追う中に、まだうすぐらい部屋の隅に板村さんが手で顔をおおってしゃがんで居る。 思わずかけ寄ると彼女が手をはなした。 目のまわりに血が・・・。

でもよかった、瞼にわずかな傷があった。 2人は机をざっと元にもどして外に出ようと隣の部屋に入る。 どの部屋も誰一人居ない。

板村さんより一歩おくれて外に出た私は一瞬呆然となった。 今迄あった司令部も、あっちこっちの建物も、ないではないか。 ただの木屑と壁土が山になっているだけ。 私は思わず濠の土手の上にかけ上った。 広島の街は・・・。 その目に映ったのはあまりにも残酷な瓦礫の街と化した広島であった。 赤茶けた想像することも出来ないむごい光景を目にやきつけながら私はその時初めて、「大変だ。」と血のさがる思いをしたのである。 下の方で兵隊さんが 「新型爆弾にやられたぞ。」 とどなっているのが聞こえる。 私は元の部屋にかけ込んだ。 そうだまだ通話の出来る所へ早く連絡を、そう思いながら電話機を持った。 九州と連絡がとれた。 そして福山の司令部へ、受話機に兵隊さんの声が聞こえるのももどかしく

「もしもし大変です。広島が新型爆弾にやられました。」

「なに新型爆弾!師団の中だけですか。」

「いいえ、広島が全滅に近い状態です。」

「それは本当か。」

大きくわれる様にひびく声。 その内に火の手が上がったのであろうか。 壕の上の草がパチパチ燃える音が耳に入った。

「もしもし火の手がまわり出しました。私はここを出ます。」

「どうかがんばって下さいよ。」 と兵隊さんの声を後に受話機をおく。 再び外に出ると炊事場のあたりではもう火がまわりパチパチと木のはぜる音がする。 その音にまじり建物の底から女の人の助けを求める声が耳に入った。

たまらなくなって水をかけようと板村さんとバケツをもって池の水を汲みに走った。 でも池の中は建物のくずが飛び散りほこりと砂でゴミすて場の様になって水は一滴もありはしない。 ああ駄目だ 他に出来ることは何か・・・、兵隊さんが下半身を建物の大きな柱にはさまれてもがいて居られる。 助けよう、出来るだけやって見ようと2人でかけ寄った。 でも組んだ様になってくずれている大きな柱は15才の少女が力一杯持ちあげても、ビクともしない。 傭員の松井さんがそこへ来て下さる。 3人は頑丈な棒を持って来て、力一杯柱をおこす。 少しずつ上がった。 身体をねじらせて兵隊さんも一生懸命はい出る努力をされる。 そして人一人を助けることの出来た喜び。 三人は手を取り合って喜んだ。 でもまだたくさんの人が・・・。

2人は走るようにして大本営跡の広場へ上がった。 大本営のまわりの芝生には負傷された兵隊さんが4、5人おられた。 その芝生に火の粉が散ってきて火がつきそうになる。 大本営の後にあった兵舎から軍服をとって来て火のついた草をたたいてまわる。 そのうちに手に負えなくなった。 火の手はあちこちにあがりぐるりと火に囲まれてしまった。 幾百年の歴史を秘めた城門も完全に火に包まれてしまった。 土手の草々も真っ赤になって、私達はものすごい熱気にたまらなくなり、泥水となっている大本営前の池につかった。 パシパシに乾燥した髪、あつくなっている服、頭から泥水をかけても一寸の間にからからにかわいてしまう。

今何時かしら?・・・ あの瞬間からどの位時間がたったのかしらと思いながら仰いだ空は、けぶってどんより暗い。 その中に此の世の色とは思えぬ不気味な赤さにくっきりと太陽が見えた。 その時でさえ、父の顔も母の顔も浮かんでは来なかった。 ただひたすらに国の為と教育され、職場で何時でも死ねる覚悟は出来ていたからであろう。 不意に、大粒の黒い雨が降って来た。 それは、ドロドロのまるで泥水である。 ものすごい豪雨になってあわてて負傷者を壕に運んだ。 10分か15分かたつとものすごい雨が嘘のようにやんだ。 私達は友達の姿を探した。 幼年学校に通じる城東橋迄来ると浜岡さんに逢った。 彼女は右手の関節の内側の皮がさけ肉がはみ出て、関節はくだけ右手はブラブラになっていた。 なんというむごさだろう。 むしょうに水をほしがる彼女! でも飲み水なんてどこにもないのだ。 赤ちゃんをなだめる様にして皆の行方を聞く。

「幼年学校の方へ皆行ったのよ。」 というので、「後ですぐ来るからね。」 と念をおして橋を渡りかけて途中迄来たとき、後ろでドボーンという音。 とっさに私は浜岡さんでないかと思った。 どうかちがうようにと祈る気持で走って帰ると、水を飲みたい一心の友は、堀に飛び込んですでに助からない状態で浮かび上がっていた。 全身火ぶくれになり、目がつぶれてしまい手はボロがさがったように皮がはげてしまった可哀相な奥田さん。

私は全身無傷の自分がみんなにすまなくてつらい気持でいっぱいだった。 お城の裏の方に逃げまどっている友はいないかと、お城の下を板村さんと一周した。 時間も何時かすぎ、木も草もやけ切れて、日もくれかかった頃、一緒の班だった古池さんや、宮川さん、森田さん達が帰ってきた。 再会を喜びながら、他県から救護に来られた兵隊さん達と一緒におにぎりを作った。 そして負傷されても割合元気な方達に配る。 私はおいしいと思って食べた。 そういえば朝から何も食べていなかった。

仮の収容所が幼年学校に出来て、大本営跡の芝生に居られた兵隊さんもそちらへ移られた。 背中に20センチ程の棒切れが突きささった青木参謀は青ざめた顔で、看護兵の手当てを受けて居られる。 大の男の兵隊さんが脱脂綿を多めに背中に当てて、力一杯棒を抜きとられた。 見るまに脱脂綿が血に染まって少々では足りない。

色々な傷を見た。 脳天に穴のあいた兵隊さん、脈うつ度に中の肉が一緒にヒクヒク動く。 全身黒こげで死んで居る兵隊さん。 空をにらんだまま目をむいで死んでいる兵隊さん。 お腹が破れて腸がはみ出て死んでいる兵隊さん。 負傷した兵隊さんが地の底からうめく様な苦しい声で 「おかあさーん」 と叫んでいるのが暗い夜空に尾をひいて、まるで地獄に居る様な思いだった。 つかれ切って何時の間にか私はねむってしまった。

8月7日は朝早くから森田さん板村さん達と仮収容所へ看護へ行く。 太田さんもいた。 水野さんも向井さんも。 全身ひどい火傷のクラスメート、夏の暑さの為に傷に蛆がわいてそれを痛いとひと言も言わず 「仕事をさして下さい。」 「私は行かなければ・・・」 「交替の時間です。」 と健気な友の声に私達は涙が止まらなかった。 一日中看護につきっきりで7日の夕方が来た。 一人二人と兵隊さんが亡くなって行く。 友達4、5人で表の城門の方へ水を汲みに出かけた。 第一の城門わきに、まだ年若いアメリカ兵が横になっていた。 しきりに 「ウォーター、ウォーター」 と私達によびかける。 少し可哀相だけど水なんかやれない。 私達の広島を、私達の同胞を、こんなにいためつけた国の人に。

あちらこちらにまだ火がくすぶって居る。 城外に出ると、やけにアスファルトが足の裏にあつい。 まだとても紙屋町迄行くのも無理であろう。 父や母はどうしているであろうか、帰れるものなら帰って元気な姿を見せて安心させてあげたいと思った。 夜、壕の中では仕事が続けられた、 まだ戦争は終ってはいないのだ。 情報が入りそれを送らなければならない。 あちこちに手伝いにちらばっている為、夜の伝令も必要だ。 私は幼年学校への伝令をかって出た。 途中傷ついた人のうめき声にびっくりして走り出せば何かにつまづいた。 見れば死体である。 暗い夜道はただでさえこわいのに、歯をくいしばってこわさにたえた。 帰り道は2、3人の友と山中先生も一緒であった。 死の町に月がのぼり真上にあった。それは細い上弦の月であった。

山中先生が 「皆はあの月を何と見るか。」 と言われた。 私は 「上弦の月ですか。」 と尋ねた。みんなも口々に何か言った。 最後に山中先生が 「あれは荒城の月だよ。」 と言われた時みんな一瞬しんとなった。 昨日迄そびえていた五層の天守閣はもうそこにはない。 くずれおちてしまったその上に侘びしい月の光!! まさに荒城の月でなくてなんであろう。

あけて8日。 友達は次々に亡くなって行く。 美しい純粋な気持を持って清らかな少女は最後迄仕事のことばかり口にして死んで行った。 竹槍を持ったまま即死に近い状態で死んだ西丸さんや佐藤さん服部さん。 歌を口ずさみながら全身やけどなのに美しい笑い顔さえ浮かべて息をひきとった友。 日本刀を杖に夕やみ迫る空を、じっとにらむ様にして立っていらっしゃった美しい須川先生。 自分のシャツを引きさいて生徒の看護に懸命につくされた、校長先生の慈愛と悲しみみちた姿! 24年たった現在も忘れることは出来ない。

生き残った私達のつとめは、続けられる限り毎年8月6日には集まって若くして逝った亡き友の冥福を祈り、思い出を新らたにしたいと思う。

最後に原爆の日に福山の司令部に連絡電話をした兵隊さん、小川国松さんに42年2月、東京で奇しき対面をしたことをつけ加えてこの筆をおく。 (『炎のなかに』より)

 

 

また岡さんは,平和学習の一環として,本校で度々講演をして下さいました。

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岡さんが見上げた空の色,原爆投下直後にかすかに聞こえた友人のうめき声,何が起こったのか分からない状況で,どのように状況を理解しようとされたのかなど……私たちのために当時の様子をとても丁寧にお話してくださいました。原爆投下直後,「同級生に会いたい」と同級生を探しに向かわれたという岡さん。会った友人たちの変わり果てた姿を見て,「『ごめんね』という言葉しかかけることができなかった」とおっしゃり,その言葉が今でもとても印象に残っています。

 

岡さんのご冥福を心よりお祈りするとともに,岡さんからいただいた言葉や思いをしっかりと受け止め,今度は私たちが戦争のない平和な世界を築いていこうと思います。

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今年度も、多くの教育実習生が本校に帰ってきました。

それぞれ、2週間、3週間の実習を無事終えました。

(4週間の先生は、引き続きがんばっています。)

実習生からのサプライズで、クラス名入りの手づくりブローチをいただきました。

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中学校全学年に向けて、同窓生による講演会が行われました。

今回は、第19回生の金島博子さんにお越しいただき、同窓会長との対談形式でお話を聞くことができました。

金島さんは、トータルコーディネーターとしてブランド「マダムヒロコ」を展開されています。

講演会当日も、「中学生のみなさんに親しんでもらえるように、全身トータルコーディネートして来ました」と素敵なファッションでお越しくださいました。

夢を持ち続け、「人に喜んでもらえることがうれしい」という気持ちで、生き生きとお仕事に取り組まれていることをお話しくださいました。

生徒たちは時折うなずきながら、熱心に耳を傾けていました。金島さんのように、素敵な女性として成長してほしいと思います。